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2021.07.07
皆さん、耕知塾の千田周平です。耕知塾は金町、日暮里にある地域密着の、そして少人数責任指導の集団塾です。
さて、前編からの続きです。
大学時代100mで伸び悩んだ経験から、自分はこれまで100mに対し浅い理解しかしていなかったことを悟った私ですが、後から振り返ったときそれが勉強にも置き換えられるのではないかと考えるようになりました。
少々雑、かつ唐突ですが、100mでの経験を勉強に置き換えると、以下のようになります。
もし現時点でこれまであまり勉強してこなかった教科があるとする。これまであまり勉強してこなかったのだから、勉強すれば成績は上がる。つまりこれまでは、既にその教科の問題を解くための材料(能力)自体はある程度持っていたのだが、材料を使わずにいたためにその使い方が分からなかっただけである。ゆえに、その使い方を学び始めれば成績は上がる。要するに、「慣れた」のである。
しかしそのうち持っている材料はすべて活用できるようになり、成績が頭打ちになってくる。つまり、成績が頭打ちになってからが、自分の「能力」を向上させるための、本当の意味での勉強と呼ぶのではないか。
成績が頭打ちになったとき、基本的に人は「これが自分の限界なんだな」とか「自分の才能はこんなもんか」といったことを思うでしょう。私も、大学4年間100mの記録を伸ばせなかったとき、同じようなことを考えたものです。
しかし、苦しんでいた当時、そして後になってから思ったのは、自分は本当の意味で100mを速く走るために必要な努力をしていたのだろうかということです。練習をすれば速くなる・・それが通用するのは最初だけ。速く走るということの意味を本当に考え、そのための努力ができてこそ、自分の能力を向上させることができるはずなのです。
勉強でもきっと同じようなことがあるはずです。数学で因数分解のやり方を教わればできるようになる。英語の不定詞の表現方法を覚えればできるようになる。しかし、それで本当に自分の「能力」が上がったことになるのか。ただ「慣れた」だけではないのか。
例えば因数分解なら、2次式という困難な対象が1次式という比較的容易な要素に還元しているというイメージ、英語の不定詞であれば動詞が名詞や形容詞、副詞と同じ役割に変化するというイメージ、そういったより抽象的な段階まで到達しようとする努力をしているか。そういった姿勢の積み重ねが、「慣れる」というレベルを超えた、本当の意味での「能力」の向上をもたらしてくれるのではないか・・・。
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そんなことを考えながら、私も毎日、生徒と一緒に勉強していきます。